やすらぎ福祉道 はじめに

はじめに

戦後の教育は、心の教育を蔑ろにしてきました。特に戦前の教育を全否定するかのように、「孝」、「敬」といった人を敬う心の徳育を忌避したのです。その影響は少なからず福祉の現場にも及んでいます。本来、福祉は人を敬うところから始まると思うのですが、収入を得ることを第一目的として就職する者が増えているのです。収入を目的とすること自体は悪くありません。問題なのは、「敬」の心がすっぽり抜けていることです。
こうなる理由の一つが、福祉の現場が専門性を高めていることです。これ自体は重要なことです。しかしながら、心の伴った専門家が減ってきていることが問題なのです。当の本人たちに、その自覚がありません。専門家が専門性の上に胡坐をかいて、相手の気持ちを汲み取ることをしなければ、専門知識が害毒にさえなるのです。専門家が、専門の教育を受け資格も取得しているからといって、心を伴っているとは限りません。心の教育を受ける機会がないのですから、当然と言えば当然です。本来ならば、そのカウンターバランスとして、資格などなくても経験や実績があれば職につけるようにすべきでした。特に福祉の現場では、資格よりも心を重視して職員を採りたいと思っているのですが、職の条件が資格取得者に固定されてしまうと、それも難しくなります。
だからこそ、職場において心の教育が急務になってきたのです。いざやろうとしたところ、ハタと困ってしまいました。心の教科書がないからです。しかし、福祉の現場では、成文化はされていなくても慣習的に教育が行われていました。それを、文章化したのが、この「やすらぎ福祉道」です。これ以上の教科書はありません。今後は福祉に携わる者の心の指針として位置付けます。

心が一番大事

今回、「やすらぎ福祉道」をまとめてみて驚いたことがあります。そこに書かれた内容は、すべて経験の積み重ねで導き出されたもので、なにか特定の本を参考にしたわけではありません。しかし、その内容は、古今東西、幾多の偉人達が世に発してきた「人としての生き方」にひじょうに似ているのです。孔子(こうし)の論語(ろんご)、老子(ろうし)の道徳(どうとく)経(きょう)、朱子学(しゅしがく)の入門書である近思録(きんしろく)、宗教では仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など、生き方の根本は人を敬(うやま)う心を持つことだと説いています。さらに、リーダー(人の上に立つ者)の条件さえも共通と言って過言ではありません。
これからの社会福祉は、限られた人たちのみを対象にするのではありません。あらゆる人を対象とした社会活動に変わってゆかねばならないのです。求められる担い手の資質も、今まで以上に厳しくなります。その資質には、徳育(心)、知育(知識)、体育(技能)の三つがありますが、どんなに知識を積み上げ、技能を磨いたところで、心が伴っていなければ職場では誰もついてきてくれません。利用者の信用も得られません。福祉に携わる者にとって心が一番大事なのです。その心は「やすらぎ福祉道」を指針にして修練すれば間違いないことを世界の偉人達が証明してくれているのです。

心も向上する

知識や技能は、勉強と訓練によっていくらでも向上させられますが、人の心は変えられないものと思い込んでいます。しかし、その考えは間違っています。確かに、心を変えることは簡単ではありませんが、心がけと訓練によって、心と感情はコントロールできるようになるのです。長年に渡る福祉現場での実績が、それを物語っています。
短気ですぐに怒りを爆発させていた者が、日々の修練で驚くほど穏やかになった例、自分中心のわがままな者が、来る日も来る日も笑顔であいさつを繰り返しているうちに、まず他人の様子を気にかけられるようになった例など、枚挙(まいきょ)にイトマがありません。
変えられないと思っていた心が変わると、周りの人たちがその変化に引きずられるように変わってきます。たった一人の変化が職場全体の雰囲気を一変させてしまうのです。

職場は道場

福祉の核心である心を完成させるために歩む道、それが「やすらぎ福祉道」です。
その「やすらぎ福祉道」を実践する場は職場です。毎日の仕事が修練なのです。プライベートでは気を緩(ゆる)められても、職場では甘えが許されません。自己にも一段と厳しくなります。職場が道場と称される所以(ゆえん)です
職場を離れた時は、一気に緊張から解放されるでしょう。でも、そのうちに、職場を離れても、人を思いやれている自分に気付くでしょう。薄皮(うすかわ)を一枚一枚はぐように、ゆっくりと、人格は高まってゆくのが実感できます。