グループ沿革 プロローグ

歴史は大泉学園実習ホームから始まった

第1期 ―誕生―

第2期 ―逆境―

第3期 ―地固め―

第4期 ―明日への胎動―

プロローグ

園長馬場八重子は、感慨深げに目の前の光景を眺めていた。

平成23年3月31日木曜日、「大泉学園実習ホーム」において、ひとつの卒業式が行われた。「実習ホーム」は、昭和52年に練馬区で生まれた法外の福祉作業所だが、この日、34年間の活動にピリオドを打った。三つの社会福祉法人と一つのNPO法人を誕生させ、いつしか大泉学園実習ホームグループと称せられるようになっていた。グループのかなめの役を果たしながら,実験的・開拓的な事業に果敢に挑戦し続けた。

この日、卒業した通所者は60名。
これまでの実践を振り返ると、通所者と呼ぶよりも戦士のほうがふさわしい。
それほどの34年間であった。
「実習ホーム」の実践のすごさは、その主人公が常に通所者であったことである。老人給食しかり、有償家事援助しかり、通所者が担い手として活動した。自らの道を自らの力で切り開いて来たのだ。

式は通所者と職員だけで質素に執り行われた。
式は終始厳(おごそ)かに進行した。誰もがにこやかな表情を浮かべていた。
卒業は終わりではない。新たな出発である。
皆、このことを自覚していた。
明日からは、新生「大泉学園実習ホーム」が新たなスタートを切るのだ。

黎明

故馬場芳規(よしのり)、園長・馬場八重子の夫である。
戦時中は東亜商事(現・東宝東和)に勤務し、国策に従って南方の文化工作に従事していた。昭和19年4月に二度目の召集を受けて、防疫給水隊の一員としてビルマに出兵することになった。ところが、駆逐艦に乗り込む直前に、芳規だけに即日帰郷の命が下った。後ろ髪を引かれる思いで降船したが、間もなく、その駆逐艦は魚雷2発で撃沈されてしまった。

芳規は除隊後、日本映画社(日本ニュース社)に移り報道局員として働いていた。今度は取材する立場で、戦地に赴(おもむ)くことになった。取材中に飛行機が墜落したこともあったが、かすり傷程度で一命を取りとめた。

不本意ながら生きながらえて終戦を迎えた芳規だが、後にこう語っていた。
「私は一度死んだ人間である。あとはおまけの人生だ。これからは誰かのために、この命を捧げて生きたい。」

日本映画社は、戦後、日本ニュース社に社名を変更し、松竹や東宝の文化映画部を吸収して日本最大の映画製作会社になっていた。戦争中に制作された戦時ニュースは、戦後すべてNHKに権利が譲渡された。日本ニュース社は戦後間もなく解散し、「日映新社」と「新日映」の二社に分かれた。

芳規は新日映の制作責任者となって教育映画や短編映画を制作していた。あるとき映画製作の取材で、放浪の画家山下清を発掘した式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう)先生を訪ねる機会があった。この出会いをきっかけに、芳規は福祉の世界に転身する。一人ひとりの人間を敬い、限りない可能性に挑戦して輝きある人生を築き上げる福祉の仕事に大きな感銘を受けたのだ。

昭和27年7月、障害のあるお子さんを抱えた三人のお母さん方のやむにやまれぬ行動によって、「手をつなぐ親の会」が発足していた。芳規は、自らの仕事を投げうって、この組織にボランティアで飛び込んだ。
このころは、戦争も終わって何年も経っていたとはいえ、世の中の景気は底冷え状態であった。多くの人が必死に貧しさと闘っていた。芳規と八重子はすでに結婚していたが、貧しさにおいては馬場家も同様であった。にもかかわらず、収入を捨てて福祉の世界に転身してしまったのだ。

日本は高度経済成長期を迎えようとしていた。「手をつなぐ親の会」は、昭和30年に社団法人「全国精神薄弱者育成会」、昭和34年には社会福祉法人「全日本精神薄弱者育成会」(現(福)全日本手をつなぐ育成会)と成長し、芳規はその間、事務局長を勤めながら会の発展に尽力した。
しかし、昭和45年、芳則は肺結核に侵され、一年間の入院を余儀なくされた。これを契機に育成会を退職し、自らの理想の施設づくりにまい進することになる。
その後、徐々に体力を回復させながら捲土重来を期して、昭和40年代の後半から「財団法人 心身障害者福祉協会設立計画書」をまとめていた。措置費で安穏と運営するのではなく自らの足で立てる(生産性のある)福祉施設を理想とした。この中で、障害を抱えた人たちに仕事を与え、訓練を重ね、社会で自立して生きていく力を与えることの重要性を訴えている。その第一期計画に、八重子の実家のある栃木県那須郡湯津上村(なすぐんゆつかみむら)(現大田原市)で、知的障害者授産施設を建設することが記されている。この計画は実現に至らなかったが、後の平成4年に、大田原市で特別養護老人ホーム「やすらぎの里・大田原」を建設することになるとは、当時想像もつかなかったであろう。

また昭和48年当時の書類の中に、練馬区の石泉(せきせん)地域における入所更生施設建設計画書があった。図らずとも30年後の平成16年、練馬区の関町(石泉地区)において入所更生施設「やすらぎの杜」が開所し計画が実現することになる。書類の発見は「やすらぎの杜」開所後数年経ってからのもので、芳規の一念が完成させたと思わざるを得ない。