第1期-誕生-

(1)大泉学園実習ホームの開所

芳規は、「人間は必要があって生まれてきているのだから存在そのものが尊いものだ。人としての原石を輝かせることこそ我々の使命である。」と常々語っていた。
昭和50年春のこと。
芳規は、妻・八重子に、「自分の子供は、どうにか生きていける。世の中には自分の力で生きることができない子供がたくさんいる。その子の手足となって生きることがおまえの役目なのだ。どこにも働きにいけない知的障害者のための作業所を作りなさい。」と命じた。
とは言え、福祉に対しての専門知識も無く、何をどうすれば良いのか、雲をつかむような話であった。夫の育成会時代に、親が亡くなって行き場の無くなった知的な障害のある子供を、度々自宅で預かった経験はあった。しかし、作業所の運営とは別問題であった。
そこで、まず現場を知るために練馬福祉研究会と言うボランティア団体を立ち上げ、病院や福祉施設でボランティア活動を始めたのである。
余談であるが、後に特別養護老人ホーム「やすらぎの里・大泉」の嘱託医として長年務めていただいた桑名忠夫医師(清瀬の信愛病院名誉院長)は、八重子のこの時のボランティア活動がご縁となって引き受けてくださった。

昭和52年初頭、八重子は、練馬区の白百合福祉作業所で奉仕活動をしているときに、区内に福祉施設が無く、どこにも行き場のない知的障害の方が二人いることを知らされた。ほどなく、割り箸の袋詰め作業の話が持ち込まれたのを契機に、作業所の場所探しを始めた。部屋はすぐに見つかった。場所は大泉学園町6丁目2番地。大泉病院の道一つ隔てた東側にあり学習塾に使われていた平屋の建物であった。

昭和52年8月15日 福祉作業所「大泉学園実習ホーム」は、芳規の固い信念を理念に掲げ、開所した。通所者二名、補助金無しからのスタートであった。
開所をあえて終戦の日に選んだのは、福祉施設こそを地域社会における平和の拠点にしたいと考えたからだ。戦時中、戦争の記録映画のスタッフとして働き、戦争のむごさをイヤというほど味わってきた芳規の平和への祈りが込められていた。
「この世に生をうけたものには、その人に応じた使命がある。どのような障害を持ち合わせていても、その子には何らかの長所・美点がある。その良いところを見いだし、それを引き出して社会に役立つ人として成長をはかる。そのためには、ボランティアの人たちも、職員も、母として、兄弟姉妹として、家族的な雰囲気の中で生活指導、作業指導を行うことにする。」(初期大泉学園実習ホームしおりから抜粋)

いざ開所はしたものの運営は極めて苦しかった。八重子は、新聞配達、廃品回収、バザーなどをして資金を捻出した。ボランティア団体「和の会」さんは、毎年のようにチャリティ・バザーの売り上げを寄付してくれた。

開所当時の日課は、朝礼で始まり、午前中は休憩をはさんで二回作業を行い、午後も同じ流れで、最後に終礼を行って帰宅するというものだった。作業内容は、割り箸の袋入れ、ショッピングバッグのヒモ通し、古新聞の回収、ペイパーフラワーの作成などであった。
職員は、八重子と、ボランティアの中村巴さん、遠藤げんさんの三人。東京学芸大学附属養護学校教員の植野善太郎先生は、知的障害者の指導の仕方、遊びかたなど実技を交えて指導してくださった。
年間行事も盛りだくさんに企画した。四月は始業式とお釈迦様の花まつり。五月は子供の日と母の日のお祝い。六月は潮干狩り。七月は七夕祭りとお茶会。八月は盆踊り大会とサマーキャンプ。九月は運動会とスポーツ指導。十月は遠足。十一月は勤労感謝をかみしめる集いとバーベキュー大会。十二月は忘年会。一月はお正月のお祝いとウインタースポーツ指導。二月は節分で豆まき。三月はひな祭りと反省会と、年間を通してまんべんなく行事を開き、通所することに喜びを味わえるようにした。

初めての通所者二名は、一日も休まず喜色満面に通い続けた。ホームで生活するのが楽しくて、日曜日もホームに行くと泣き出すほどであった。その噂を聞きつけてか、瞬く間に三人の方から通所依頼が舞い込んだ。いずれも大きな施設や職場になじめない方たちだった。
そのうち、東京都から練馬区を経由して補助金が支給されるようになり、そこから家賃や光熱水費を支払えるようになった。また、新たに柳田光江を職員として迎えることもできた。仕事は厳しく、生活は楽しくをモットーに、「実習ホーム」の基礎を作り上げたのが彼女であった。園長の八重子を陰で支え続け、柳田の加入なくしては現在の「実習ホーム」は無かった、と言い切れる存在である。
10周年の記念誌に寄稿した柳田の文がある。
「そんな彼、彼女等の成長ぶりがうれしく私の励みだったのです。
この思いは私だけでなく他の職員も同じだろうと思います。」
通所者と共にあり、互いに成長してゆこうとする柳田の愛情あふれる言葉である。

昭和58年7月、通所者の増加により、大泉学園町6丁目28番の運送会社の倉庫に使われていた2階建ての建物(延べ面積約50坪)に移転した。目の前には都民公園があり、運動場のように使用できた。

通所者も20人に増え、職員に明石鮎子が加わった。明石は早稲田大学で心理学を専攻した才媛で、以後の「実習ホーム」の理論的指導は彼女を中心に展開された。
明石は、「実習ホーム」の開所直後からボランティアとして活躍していたため、利用者のことは知りつくしていた。柳田同様、明石の存在無くして現在の「実習ホーム」を語ることはできない。

(2)第二大泉学園実習ホームの萌芽

昭和60年に入ると、大泉病院からひとつの相談を受けた。退院間際の入院患者を、社会復帰訓練の一環で作業所に通わせられないかと言うのだ。当初は、精神の病についての知識など持ち合わせていなかったので二の足を踏んでいたが、ためしに2階の部屋を使って始めてみることにした。
最初は通うことから始め、作業時間も一時間から一日へとゆっくりと伸ばしていった。社会経験の豊富な方も多く、見守るだけで何もする必要が無かった。作業の仕方など職員のほうが教わることも多かった。最初は無口であっても慣れてくるにしたがって心を開いてくれた。それぞれの口から語られる人生は、壮絶なものであった。職員は、ただひたすら聞き役に回り、うなずくしかなかった。
「第二大泉学園実習ホーム」(以下、「第二」と表記)は、こうして始まった。「第二」が、精神障害者共同作業所として補助金をいただけるようになるのは、もうしばらく待たなくてはならなかった。

昭和60年、「実習ホーム」の基礎を築いたもう一人、遠藤光明が職員として加わる。
男性職員を求めていた八重子としては、ありがたい存在であった。
高校時代、甲子園を目指すほどのスポーツマンであった遠藤は、「実習ホーム」の運動や体力系の作業を一手に担い、作業や活動の範囲を大幅に広げたのであった。やはり、初期実習ホームを支えた人物として貴重な存在であった。

「大泉学園実習ホーム」の誕生から「第二」の萌芽が生まれるまでの期間は、財政的に極めて苦しい時代だった。頁の都合で紹介こそできなかったが、大勢の方々から支援をいただいたのは言うまでも無い。すでに鬼籍に入られた方も少なくない。グループ法人の職員は、これら先達の努力および功績を決して忘れてはならない。